" I " 言葉 noblesse oblige

逆さまの蝶は光に向かう。そして世界を

Fashion as Prodigality? 参加記念覚え書き

 

なんかものっそい長くなったのでテキトーに流し読んでね☆

そもそも俺による俺のためのメモなんで、

こまけーことは気にしないw

 

 

 

 

 

要予約先着30名という狭い枠の中、

告知直後に申し込んで無事参加。

 

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こんな感じの招待状が届いきました。

 

MA déshabillé

RECEPTION PARTY OF 2013 S/S COLLECTION

Fashion as Prodiaglity?-浪費としてのファッションは可能か?

2012年12月1日(土)

@SIEBEN

Talk :國分功一郎 with蘆田裕史

 

 

MA déshabilléの主催でいらっしゃる村田明子さんが國分先生の大ファンと言うことで実現した企画のようです。

 

 

 

自分は國分先生のおっかけとしてw参加しましたが、

大半はファッション、デザイン関係の方だった模様。

 

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待機中の1枚。

向かって右手に國分先生が、

左に聴き手として蘆田裕史さんが座られました。

 

國分先生は、村田さんにされるがまま、

とっても素敵な衣装にお着替えされたのですが、

写真撮りそびれましたw

流石は先生、めちゃ似合ってました。

 

 

トークイベントにTV出演にとご多忙でいらっしゃる國分先生ですが、そこはばっちりいつものようにレジュメを用意されていました。

いつも2枚程度なのが今回はA4サイズ4枚で、

「レジュメが多いときはまとまってないんです」とおっしゃっていましたが、

中々答えの出ないテーマではあるので、

話しながらみんなで考えましょうということで。

 

 

ファッションというテーマについて今まであまり深く考えたことがなかったとのことでしたが、

ご著書『暇と退屈の倫理学』にてボードリヤールを参考に定義された「浪費prodigality」と「消費consumption」を導入に話が展開されました。

 

 

言うわけでー、

『暇倫』読み直して予習して行った俺大勝利w

 

浪費は満足をもたらしてある時点で止まるけれども、

消費はむしろ不満足が溜まって際限がないよね、

という話。

消費において物は記号化されていて、消費行動は観念論的な行為だから一向に満足しないんですね。

 

この辺は、だいぶうんうん言いながら理解できてるつもり。

 

 

 で、

まぁ、

自分でまとめられないところは端折るよ。

 

 

服は何のためにあるのか?

防寒?

装飾?

 

ここで、

國分先生が、

ランボーが毛皮に穴開けて頭から被るんだよね」

という話をされて、

「詩人の方の(アルチュール)ランボーの話すると思ったのに」

とみんな後で突っ込んでたw

 

 流行-Fashion-に左右される服と

 流行-Fashion-に左右されない(保温や礼儀のための)服

 があるわけではなくて、

 服はそもそも装飾じゃないのか?

 ファッションが消費的であることはあり得るが、

 ファッションが本質的に消費なのではない。

 

 

と、

國分先生の結論がいったん出たところで蘆田さんにバトンタッチ。

 

蘆田裕史さんは京都服飾文化研究財団というところのスタッフで、

ファッションがご専門であります。

 

まず、

「人が何故服を着るのか?何故着初めたのか?」

について一般的に

①装飾

②身体の保護

③表示(礼儀とか)

④羞恥

⑤呪術

の5つが挙げられるけれど、

④の羞恥は違うよと。

隠すのが先だと。

隠してるから恥ずかしいんだよという話でした。確かに。

 

そして蘆田さんは、装飾がまず最初だとのこと。

 

次に、

「浪費」は満足をもたらすというけれど、

服を着て満足するってどんな時だろうか?

そして、「他者の目を通さない満足」って有り得るのだろうか?

と言う話で終盤に入り、

参加者と対話しつつ、

それは有り得ないよね、と。

人はファッションに関して個性と同一化を同時に求め、

そこには必ず「他者の目」があるという結論に至りました。

 

ってなんかすっきりまとめて終わっちゃう感じに違和感を持たれた主催の村田さんが、

「そんなN〇Kみたいな終わり方しないでもっとこう尖った感じで・・・」と。

 

以前『暇倫』のトークイベントのときに、

人間は死に向かって生きてるんだ云々美しいっていうのは死に近いんだ云々ってフロイトの話をしてたよねー

その感じが欲しい、

となったんですが、

ちと難しいのでゴニョゴニョ・・・

 

 

 

 

 

 

 

で、

お二人の話を聴きながら考えたことというか感じたことというか日常を思い返して。

 

 

 

ジャージすっぴんでどこまで行けますか?

ゴミ捨て?

コンビニ?

っていうのはまさに「他人の目」があるから出る話で、

そうすると服はやっぱり装飾だなと。

 

おしゃれって、疲れるよね。

ジャージ楽ちん。

かわいい格好ってしんどい。

ミニスカは寒いし動きにくいしパンツ見えるし。

ブーツやヒールは歩きにくいし足痛いし。

 

寒いの我慢して腹巻に毛糸パンツとか、

まさに外身は装飾なわけです。

 

 

あと、

個性と同一化が同時発生するという話については、

ちょっと前に(今も?)友達やカップルでお揃いを着るというのが流行ったらしいというのを思い出した。

示し合わせて、二人や三人でお揃いや色違いを着てコーディネートを合わせるというあれ。

そうすることで同一化も図れるし、目立つことで個性を発揮するなんてまさに同時発生じゃないかと思った。

 

 

 

そして、

自分はどんな服に満足するのだろうかと考えたときに

まず思い浮かんだのが、

コスプレ。

 

以前、榊原ゆいさんのライブに行ったとき

ゆいにゃんっぽい格好」でキメたら、

階段ですれ違った人に一瞬本人と間違えられる

という瞬間があった。

あの瞬間の感情は言葉に出来ないくらい何か高揚したものがあったなと思い出した。

 

國分先生の発言の中に「浪費した時は物との対話がある。服と俺がチームで「俺たち今見られてる!!イケてる!!」ってなるんだよ」というのがあって、

まさにそれだなと思った。

衣装を纏ってなりきって、

他者からも(似合うかどうかはともかくw)「それ」として見られて満足!!

、っていう一番わかりやすい例がコスプレじゃないかなと個人的には思いました。

この話、蘆田さんにしたかったなぁ・・・・・またきっと次の機会にもう少しまとめて、ね。

 

 

 

と言ったところでもうなんかまとまらないからおしまいにして、

アフターイベントの話も含めてto be continued...